何処から?、何者?、何処へ?


by kusini
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カテゴリ:風景( 12 )

東京紅團

前回のブログを書いたら、面白いサイトを教えてもらいました。 東京紅團

長く続いていて、おすすめサイト大賞にも選ばれていたので、きっと有名なのでしょう。

「読んでから歩くか、歩いてから読むか。文学散歩の最強サイト!」というコピーが載っていました。
かなり古い作家から、文学以外のひとのものまであります。

写真も多く、筆者が、街がどのように変わったのか、変わらなかったのか、歩きながら追体験しているので、行ったことのない場所でも行ったような気になります。

別に文学以外でも構わないのですが、この海外版とか、自然・風景をこのように扱ったサイトも探してみたくなりました。

ネットが日々増殖している巨大なデータベースだとしたら(実際そうなのですが)、望むものは必ずあるのでしょうね。

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by kusini | 2006-10-01 07:40 | 風景
a0058379_8461697.jpg3日目、標高4710mのキボ・ハットに向う途中から、吐気、悪寒、頭痛がして何も食べられなくなりました。

日本では北アルプス槍ヶ岳や穂高、冬山登山もすこし経験していたのですが、最短コースで1日1000m高度を上げて来たので、当然の如く高山病に罹ってしまいました。

キリマンジャロ登山は、この高山病克服がポイントになります。
パーティーの仲間は、用意して来た薬を分けてくれたり、呼吸方法を教えてくれました。

マウエンジ峰が麓に辿り着くと、岩だらけの平坦な路が続き、正面にキボ峰とキボ・ハットの点が見えます。
すこし歩いては立ち止りながら進むため、その点はなかなか大きくなりません。

ガイドやポーターたちは頭に荷物を載せ、ゴム長靴で先に歩いていきます。

ここまで熱帯雨林、草原、高地草原、高山
湿地帯と高度を上げる度、植生が変化して、
ここが最後のAlpine Desertといわれる
地帯です。
a0058379_8464648.jpg
岩場の間にかなり珍しいサボテン類の高山植物もあったと思いますが、じっくり観察する余裕がありませでした。

翌日は深夜に小屋を出て、ガイドの懐中電灯を頼りにキボ峰頂上にアタックしました。

地面に雪が現われ、路がよくわからなくなった地点であきらめ、ひとりで戻りました。
小屋に着くころにはあたりが白み始めていました。

パーティーの仲間のうち女性と男性ふたりがギルマンズポイントまで行きましたが、最高a0058379_8472552.jpg
地点のウフルピーク(5896m)には登頂でき
ませんでした。

帰りはその日のうちにホロンボ・ハットまで戻り、翌日の昼には出発したゲートまで転げるように降ってきました。
頭痛、吐気は、うそのように消えていきました。

ゲートでガイドやポーターたち全員でビールで乾杯しました。

モシに戻ると、今度は空腹が襲ってきて、仲間みんなで街のレストランに駆け込みました。

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by kusini | 2006-07-12 09:18 | 風景
つづくと言ったきり、しばらく更新をサボってしまいました。a0058379_04580.jpg

昔の写真を見て思い出しながら書いています。
忘れかけたところは最近登った方たちのブログを見ています。

登山の行程、高山病との闘い、山小屋の様子など当時とまったく変わっていないのですが、地球温暖化の影響かキボ峰の氷河と冠雪はだいぶ小さくなっているようです。

登山には、ガイド1人とポーターを何人か雇わなければ入山でません。
私たちパーティーは「松竹梅」とあったコースで、コックなしの一番安いものを選び、食料は街で調達しました。

さらに貧乏旅行をしていた私は、荷物は自分で背負うということで、ポーター代はただにしてもらいました。

モシの街からヒッチハイクで登山口まで行き、防寒服と靴を借り、ガイド・ポーターと合流しました。

ガイドは陽気な奴で、片言の日本語を話します。
「2日で頂上まで登った日本人を知っている」
「ウエムラナオミという名前じゃない?」
「そーそー」a0058379_0184763.jpg
「秘密の場所で氷付けになった豹を見せてあげる」とも言うので、あまり信用できません。

2泊目の山小屋(ハット)までは急な勾配もなく、皆でいろいろ話しながら進みピクニック気分です。

海外青年協力隊は任期2年間で、女性はマラウイの小学校の算数理科の先生、男性は自動車整備を現地の人に指導していて、もうひとりは測量士だったと思います。
皆アフリカに来たらキリマンジャロに挑戦しようと計画していた、といっていました。

当時生物学科の学生だった私が面白いと思ったのは、垂直高度差による植生の変化でした。。a0058379_0353248.jpg

1日目のマンダラ・ハット(標高2700m)までは、熱帯雨林帯のような鬱蒼とした樹林が広がっています。
山頂からの地下水が豊富な証拠です。

2日目のホロンボ・ハット(標高3720m)からは、耐寒性の常緑低木(ヒース類)が草原や岩肌の間に続き、高度を上げる毎に植物群が変化していきます。

陽が沈んだあと、光りがまったくない漆黒の闇というものを始めて経験しました。
ところが2日目の夜は、満天の星空で空全体がまぶしいほどでした。

(つづく)

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by kusini | 2006-06-30 23:59 | 風景
ケニヤからタンザニアに渡ろうとしていましたが、当時なぜか陸路の国境は閉鎖されていました。
ダル・エス・サラームへ飛ぶ飛行機のことを聞き、何とかチケットを入手しました。

早朝、ウィルソン空港という所に行くと、そこは小さな飛行場で、軽飛行機のようなチャーター便に客はインド人ファミリーと私だけでした。

a0058379_7513817.jpg軽飛行機は、高度1700mのナイロビからキリマンジャロを目指して飛びました。
国境に聳え立つキリマンジャロがよい目標になり、そこから国境沿いにインド洋に出て、タンザニアの首都ダル・エス・サラームに向う航路を取ったようです。
航空レーダーもなかったので、それが一番安全だったのかも知れません。

天気がよく飛行日和だったのか、黒人のパイロットはキリマンジャロの氷河に近づいたり、麓のアンボセリ国立公園を動物の群れが見えるように低空で飛んでくれました。

雄大な自然に圧倒され、まったく計画もな
かったアフリカ最高峰の登山に挑戦しようと
考えたのはその時です。
まだ若かったし、ひとり旅の気楽さもあったと
a0058379_7592085.jpg思います。

ダル・エス・サラーム滞在中運よく、キリマンジャロにこれからアタックする日本人に出会いました。
マラウイという国へ赴任した海外青年協力隊の男子ふたり、女子ひとりが休暇中に来ていて、そのパーティーに参加させてもらうことになりました。
もうひとりどこかの国で任期を終えて世界を放浪している協力隊の友達が加わるということでした。

私だけ先に、麓の出発点となるモシという街
にバスで一晩かけて行くことになりました。

モシは街の中心にモスクがあって、インド人が
多く、街のどこからでも2つの峰が見渡せます。
a0058379_872458.jpg夕暮れどきには、稜線全体と雪を頂いた峰が
黄金色に染まります。

登山は比較的容易で、4日かけて雪のあるキボ峰(5895m)まで登り、1日で降ってきます。
ガイドとポーターは雇わないと入山できません。

YMCAの宿のプールで浮きながらキリマンジャロのパノラマを眺めていると、ここにいるのが夢のような気持ちになってきます。

アフリカに来て以来、なぜだかのんびりとした気分で数日間を過ごすことができました。

(つづく)

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by kusini | 2006-06-07 08:48 | 風景

稲村ケ崎

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稲村ケ崎と小動岬(コユルギミサキ)の間の七里ヶ浜に駐車場があり、休みの日はよくここに来ます。

フリーマーケットが隔週で開かれ、ハンバーガーショップの外のテーブルの上空ではトンビが舞い、サーファーは必ず海に浮いていて、穏やか日でも雨の日でも早朝から夕暮れまで波を待っています。

空気が澄んでいるときには、江の島のバックに富士山が並び、三浦半島や箱根、伊豆半島が見渡すことができます。

稲村ケ崎の公園には、新田義貞を詠んだ明治天皇歌碑やコッホと北里柴三郎の記念碑、ボート遭難の碑があってにぎやかです。
向かいには、最近駐車場工事をしていたら温泉が湧いたのでできた温泉場があります。

ここの砂浜は砂鉄が多く黒ずんでいるのですが、砂の流出が進んでいるということです。

数年前、稲村ケ崎の海水浴場が最後となるときに遊びに来ました。
8月末だったので案の定、沖で親子でクラゲに刺され、救護室で手当を受けた最後の海水浴客となってしまいました。

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by kusini | 2006-05-24 08:16 | 風景

五月の鷹とルネッサンス

5月は、誕生月で、1年のなかで一番好きな月です。
梅雨まえの爽やかな時期、若いときは毎週バイクで、箱根や伊豆にツーリングに出かけていました。




目つむりていても吾を統ぶ五月の鷹




黒板にルネッサンスと書く五月





上の句は、寺山修司が15歳のとき創ったという有名句。(アオスブと詠みます)
下は、昔新聞の一般投稿欄で見つけました。作者はわかりません。

5月になるといつも、この2句の情景が広がります。

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by kusini | 2006-05-13 11:01 | 風景

Kさんのこと(その3)

Kさんからでした。

 -いまどこにいるの?
 -海雲台の○○ホテル。
 -それなら近くだ、ここから見えるよ。

ベランダに出てみました。
いつも眺めていた岬の上にいたのです。
実家にいたのが弟子にあたる人で、連絡がいって探してくれたらしいのです。

すぐタクシーで向かいました。
湾の端に鉄道の駅があり、そこから岬に向かって登っていきます。
ホテルやレストランや温泉が、木立の中に続きます。

Kさんのいるタルマジギルというのは「月見の丘」という意味で、日の出と入り、月の出と入りが見られる場所として韓国では有名なところだと、妻が教えてくれました。

岬の上は、人がたくさん集まっている公園があり、さらにそこからカフェの並んだ脇の路を昇ったところでKさんは待っていました。

Kさんのマンションは、部屋が全部オンドル式の茶室でした。
それぞれ部屋が、趣味のよい内装で統一されています。
ベランダ側に部屋からは海と月が見えました。
他にはなにもありません。
それは、一歩外に出た賑やかな世界とは別空間でした。

相変わらずひとり身で、テレビもパソコンもクルマもない暮らしだといいました。

私は贅沢だと思いました。
それは、普通の人が得ることも、耐えることもできない孤高の贅沢さです。
もちろん私も普通の人のひとりです。

3人でいろいろなことを話しました。
妻はあっという間の10年間だったといいました。
Kさんは、両親が死んでからここに移って来たといいました。
喫茶店はそのままだし、ここでお弟子さんにお茶を教えているらしいのです。
カナダ人は日本人と結婚して、大阪で翻訳事務所を開いていました。
日本語で話すのは久しぶりといいながら、いつも落ちつた話し方で、完璧な日本語です。

帰りはふたりで歩きました。
長い坂路の途中、月明かりの海がずっと眺められました。

2年後、妻と再び釜山に行く機会ができました。
Kさんのお店は、探しいた所から一区画隣りのビル移動していました。
テーブルや椅子は初めて行ったときと同じものです。
事前に見てきた釜山観光のネット情報や掲示板では、伝統茶の味わえる落ち着いた喫茶店として評判になっていました。

Kさんは地方のお寺に行っていましたが、間に合うように戻って来てくれました。
相変わらず彼とらしい再開のし方だと思いました。

次にKさんのことを語れるのは、いつの日になるかわかりません。
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by kusini | 2006-03-05 23:34 | 風景

Kさんのこと(その2)

初めての韓国旅行の印象が強かったからかも知れません。
ソウルオリンピックの翌年、あるきっかけで婚約しました。
彼女は海外で働いたことがあり、お互いに国際結婚は自然だったのだと思います。

久しぶりにKさんに連絡すると、ソウルに来る予定だといいました。
仁寺洞という陶磁器や骨董品店が集まった場所にある、伝統茶の喫茶店で会いました。
いかにもKさんらしい場所です。
彼女には、日本で暮らすことは全然心配ないといろいろアドバイスしてくれました。

それからソウルには、ゲームソフトのライセンスやエンジニアの採用の仕事で、さらに家族旅行で毎年何度も行くようになりましたが、釜山には機会はありませんでした。
(一度だけ仕事行きましたが、1泊でKさんに連絡する暇はありませんでした。)

11年後、仕事で妻を通訳として連れて釜山を訪れました。

打合せは1日で終ってしまい、翌日からKさんのお店を探しました。
電話は、何年かまえに地区全体の変更があったということで繋がらなかったのです。
Kさんの実家には繋がりましたが、ここには住んでいません、と言われました。

南浦洞の光復路というメインストリートに、龍頭山公園へ上がる長いエスカレーターの入口があり、ちょうどその一角のビルにお店があったと記憶していたのですが、見つかりません。

ふたりでチャガルチ市場で食事をして、国際市場で買い物をして、龍頭山公園の釜山タワーへ行き、いろいろな方向からその場所に戻って来ても、見つかりません。

もうお店はなくなったのかと諦めたあと、太宗台を訪れ、海雲台のホテルに戻りました。
ホテルのベランダからは、白い砂浜のビーチと遠くの岬が眺められます。
夕方、外に出て海岸に一列に並んだポジャンマチャ(屋台)へ行き、ふたりでお酒を飲みました。

日も暮れてホテルに戻り、もう無理だねと話しているときに、電話が鳴りました。

(つづく)

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by kusini | 2006-02-26 19:14 | 風景

Kさんのこと(その1)

就職した年の夏、下関からフェリーで韓国釜山へ行きました。

雑魚寝の三等船室で、京都で茶道の勉強している長身のカナダ人と旅行中のニューヨークに住む若い画家と知り合いました。

私は一週間の夏休み中、ソウルから板門店近くまで行って韓国を縦断しようと計画していました。
ふたりはビザの関係で来ただけで、すぐに日本に戻るということです。

翌朝、3人は釜山の街をうろうろしていました。
初めて韓国だったが、どの店も小さく、工事中の空き地があり、人は多く、でも日本人の外見と変わりはなく、私が子供のころの日本にタイムスリップして来ているような感じでした。

そのとき街中で声を掛けてきたのが、Kさんでした。
カナダ人とお茶の留学生仲間で、彼があまりにも背が高かったので偶然遠くから目に付いたらしいです。

お茶を出す喫茶店を開いたばかりだということで、繁華街にある自分の店に連れて行ってくれました。
落ち着いた雰囲気と調度品に囲まれた店内で、お客が選んだ陶磁の茶碗で緑茶や韓国の伝統茶を楽しめるようになっていました。
彼は、すたれ気味になった韓国の茶文化を普及させたいといっていました。

Kさんは、韓国釜山らしい場所を見てみたいという私たちの希望に応えてくれました。

チャガルチ市場通度寺太宗台、お茶を嗜む知合いのお坊さんのお寺、光復洞の夜の賑わいと真夜中の厳戒令、お店の小さなステージでの伝統女性舞踊、2日間私たちには最大級のもてなしでした。

Kさん宅に泊まったときは、カナダ人が「茶道が日本人の精神性にいかに大きな影響を与えているか」という説明を英語でアメリカ人にするために、Kさんと日本語で相談していました。
日本人なのに実際にその知識がない私は、恥ずかしかった記憶があります。

そのあと私だけ、ソウル-汶山(ムンサン)まで行き、釜山でもう一泊Kさんのお世話になり、フェリーで戻ってきました。

次に、Kさんと合うのは5年後でした。

(つづく)

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by kusini | 2006-02-22 08:11 | 風景

夢のような場面

a0058379_1441253.jpg陸路でボツワナからザンビアへの国境を越えたときのことです。

ここを通ってアフリカ南端の喜望峰まで行き、半年ぶりに同じ場所まで戻ってきました。

バス停のようなイミグレーションで待っていると、次のトラックをヒッチハイクすることができました。

 -どこから来たの?
 -日本から。
 -ブルース・リーと同じだ。
 -あれは香港、日本じゃないよ。

陽気な黒人の運転手で、英語でこんな会話をしたと思います。
私もあと数十キロで、日本人の知合いがいるリビングストンに辿り着くかと思いほっとしていました。

草原の土の路に、線路が現われました。
その前でトラックが止まったのです。
草原と路と線路だけで、信号機も列車も他のクルマも何もありません。

運転手は自分の横の窓を見たので、私もそうしました。
私がOK、というとトラックは動き出しました。

何だか夢のような記憶ですが、本当にこの場面はその後何度も夢の中に出てきました。

広い草原での一本道で、トラックが線路のまえで止まり、ふたりで左右を見ているのです。

鉄道は、ビクトリアフォールを越えてローデシア(いまのジンバブエ)へ行く線路だったかもしれません。

リビングストンの街で降りたとき、ブルース・リーの武器が欲しいといわれました。
もちろんヌンチャクなど持っているわけがなく、リュックの奥にあったセーターを渡して彼とは別れました。




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    当時アフリカでベンツといえば大型トラックのこと                   すこし走ればラジエータに蝶がつく
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by kusini | 2006-01-16 02:24 | 風景